気付くのが遅いシーラカンス/再

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【読了メモ 少女と傷とあっためミルク-春名風花著】

 たんぶらーより転載

すっかり貧乏学生が板について単行本なんてほとんど買わなくなったんだけど、折角これにはお金出したい!って久々に思ったので読了後に思ったことちょっとメモしておく。
生実可容姿が整っていて物を考える力があって正義感が強いばっかりに、あんなに幼い(内面成熟の問題は別として、年齢的に若い)うちから炎上に遭いバッシングされ脅迫され、っていうのを経たおかげでというかせいでというか、それで身についてしまったであろう強さしなやかさについては言及してるひとがたくさんいるからあんまり長々とは語らないで割愛。ただ苦しい目に遭った人遭ってる人の言葉は段違いに意味を持つし人を救うんだと思う。それを発する役目を小学生に負わせてしまうことになった社会、システムはちょっと酷すぎるよなぁ。彼女の言うような明るくて優しいネット社会だったらそんなことにはならないのにね。
フォロワーを家族みたいなものと呼んで、どれだけ傷つけられても悲しい思いをしてもTwitterで人とつながることをやめなくてよかったと繰り返し述べてるはるかぜちゃんの考え方を前に思い当たるのは”無責任のあたたかさ”みたいな物の存在。
これについてはだいぶ前に、ATARU(中居正広主演のドラマ)についてブログかどっかに書き散らしたことがあるなーと思い出した。 
サヴァン症候群の主人公・アタルの能力を犯罪捜査に活かすべく、彼をトレーニングしたFBI。アタルのことを、また彼の弟のことを思い悩み抜いた末、アタルをFBIに託した両親。
彼らはアタルのことを心底愛しているがしかし、あるいは愛するあまりに、時にその行為は仇となり、時にその思いは彼を苦しめる。しかし物語の軸となる、アタルと偶然出会った日本の刑事ふたりは、赤の他人であるが故にまっすぐにアタルと悲喜を共にし、心配し、大切にし、両親やFBIが持て余していたその能力を活かすことさえできてしまう。
血を分けた肉親をはじめとして、親密で、同時に責任が伴う関係での愛情や思い遣りはそれはそれは尊いものだけど、その分重い。軽はずみな言葉は紡げないし受け取る側にも責任が生じる。しばしば双方に息苦しさや痛みをもたらす。はるかぜちゃんが何度か言及している、「いじめにあったても、心配をかけるのが嫌で家族に相談できないこども」というのは典型例。
その一方で、さして関わりのない他人にそんな枷があるわけがない。「ゆるくつながった」フォロワーがくれた言葉は軽々としがらみを飛び越えて、不思議なほどすとんとおさまることがある。
無責任な他人の暴言は人に致命傷を負わせるけど、無責任な他人の無責任な励ましや共感は何にも代え難い力の素になることがあるのではないかと思う。それがはるかぜちゃんが描く、ネット社会に刺す一筋の光なんじゃないかな。