気付くのが遅いシーラカンス/再

みたものきいたものよんだもの覚書。よろしければtumblerもどうぞ。http://s-lateshow.tumblr.com/

【読了メモ】伊藤計劃 ハーモニー


今更ながらの読了メモ。伊藤計劃のハーモニー。一昨年の今頃虐殺器官を友人から借りて読んで、あんまり飲み込みきれずに2年が経過し、別の友人からハーモニーを借りて読むという奇遇というかなんというか。

虐殺器官と比べてだいぶ飲み込みやすくわかりやすかった。それはおそらく、この本の主題である「高度医療福祉社会の閉塞感」、「リソース意識に基づいた善意に満ち溢れた世界の歪み」、「頭打ちになったユートピアとその臨界点」、これらが医学を学びながら漠然と息苦しさを感じている私自身の気分と親和性が高かったからという個人的な事情もあると思う。

<大災禍>ののちに構築された、"生府"のもとに誰もが「互いを思い遣れ、調和せよ」という律を疑わない優しい社会。その優しさ、無償の愛は何に由来するかというと、「リソース意識」である。
人は社会にとって貴重なリソースであるから、害してはいけない。子供同士のいじめなど以ての外だし、自傷行為はおろか不摂生、飲酒や喫煙やバランスの悪い食生活などすら"自分の"身体という"公共の"リソースに対する攻撃とみなされる。

「自分の身体だから自分のいいようにしていいなんて思い上がるな、誰に産み育ててもらったと思っている」
幼少期から繰り返された台詞とオーバーラップして、別の世界の物語とは思えなかった。

誰に誇示するわけでもないひっそりとした不摂生や自傷自罰行為すら悪とされるなら、それを欲するほどに磨耗して歪んだ精神や「意識」にはいったい何が報いてくれるというのだろう。
高度に医療化され、老衰と事故以外で人が死ななくなった世界では、将来有望なリソースとして手厚く保護されているはずの子供たちの自殺が増加しているという描写が挿入されている。
自分が死ぬことによって世界はリソースのひとかけらを失う、ざまあみろ、という心理なのか、あるいはこのまま老衰するまで中庸を保って長くて退屈な人生を歩まねばならないことに対する絶望か、あるいは痛みを感じる機会を剥奪されたことで精神と身体の均衡を失い、明確な理由なくタナトスに魅入られるように自死を選ぶのか。

身を脅かされている間は、生物としての本能に従って生き延びるということだけに全意識を傾けることになる。
しかし身体の安全が確保され、手厚い保障によって衣食住に不自由しなくなると、意識には思索を行う余裕が与えられる。そして普遍的な疑問にぶち当たる。

「そこまでして、自分が生きる意味がありますか」と。

その問いに対するこの世界の回答が「あなたは社会にとって重要なリソースだから」というものだ。

この答えに納得することができない異分子の「たましい」にとって、社会全体が思い遣りと善意に覆われ、隣人同士が過保護な親のようにある種の束縛を行いさえするようなった社会はどんなに息苦しいだろう。

頭打ちになったユートピアユートピアとして受容できないことは、人間が「意識」を持った動物であることの証明でもある。

その齟齬に対してこの物語の終盤で提示された解決は、あまりにも悲しいとわたしは感じた。



「飲み込みやすくわかりやすい」といえば、物語の終焉後の「個人の意識が喪われた世界」では、この文章に散りばめられたタグによって「意識」を疑似体験できる…という設定の妙。つまり、わかりやすくないはずがない、誰が読んでも同じように読み取れるようにお膳立てされた、読み手による解釈のブレや歪みが生まれ得ない世界の記録として本文は描かれている。
この結末を悲しい、切ないと感じることができるのは、読み手であるわたしが「意識」を持っているからに他ならないと、鮮烈に自覚させられるラストだった。


時に誰もが同じ顔をしているかのように感じられる現実世界で、命の期限を少しでも延ばすことこそ正義という考えが今も根強く残る医療業界というコミュニティの中で、「意識」を圧し殺してしまったほうが生きやすいのではないかと感じられることはしばしばある。

それでも、この作品を読み終えた後に感じた痛みを愛おしいと思ったことは忘れずにいたいし、忘れてはいけないと思う。

そんな自戒を込めて久々の読書感想文でした。